【特典】”戸田真樹×吉本昌行 ザ・談 web版” / ”KOR-ONE 「WIND NOISE」Specialインタビュー記事” を読むことが出来るURLリンクの記載されたポストカードを封入。
“ザ・談”では、2018年、数々の作品を世に送り出した志人×ON TODAの生みの親である両者の本年の総括を”昭和〜平成時代”を振り返りながら 、制作秘話や今想うことなど、様々な話題に触れた”ザ・談 “が繰り広げられています。又、同URL内で1stアルバムをリリースしたKOR-ONEへアルバム制作秘話やその想いを探る取材を試みましたスペシャルインタビュー記事を読むことが出来ます。是非お楽しみ下さいませ。
■ 内容:
・"ズラカリ" 凶暴徒化スト運動 -金感情癇癪尺貫法ノ変- 詩:志人 風刺画:志人
・" 宇宙の外側 – O.O.O -〈Outside Of Outer space〉" 詩:志人 絵/写像:尼子
あとがき 分析/レビュー文等
穴あきアナライザー 他
全約80P
Jacket 風刺画 by 志人/sibitt
limited 400
※ジャケットは告知用の仮ジャケとなっております。 完成版のジャケットが仕上がり次第更新致します。
「さいなら まったいら」と命名された別冊歌本は、元号平成最後とされる2018年に制作された”独想哲学詩漫画”である。
従来の漫画とは異なる形態をとり、志人の独想的な哲学の世界が鑑賞する者達を脳内ミクロコスモスと広大無辺のマクロコスモスへ迷い込ませる怪作である。
詩人の心象風景を見事に可視化することに成功した挿絵も実に捻くれ、真っ当ではないが故に紙面から断片的に取りこぼされた未解決事件の如き異物感を漂わせている。
志人自身による現代社会を痛烈に風刺した作画の数々は、非常に短期間の内に描かれた膨大な風刺画の中から選び抜かれた絵達だそうだ。
その部分においてこの実験的な試みは、志人の表現におけるインプロビゼーションの可能性の延長にあり、彼自身が詩に込めたエネルギーを端的に表し偶然を装った確信犯的な産物でもある様に想われる。
正に意図的に迷子になっている近代国家の縮図を物の見事に捉えた風刺画達だ。
"ズラカリ" 凶暴徒化スト運動”Go Berserk!” -金感情癇癪尺貫法ノ変- の項に載っている志人の詩の内容や危険度の高い風刺画も含め、
一見して有害図書扱いされる事も想像されよう。
がしかしだ、昭和が産んだ表現者である志人がその眼で、その身で、心で、脳で、痛烈に感じてきた現代社会/近代国家の移りゆく風景を絶妙に「画」に落とし込んでいるのが私は手に取るように分かる。
それは、焼け跡世代を経てドロップアウトピープルと高度経済成長を支えたビジネスライク戦士達とで枝分かれした団塊の世代、或いは第一次ベビーブーム世代が1980年代に産んだ子供達へ抱いた”未来への過大な期待感”を見事に裏切り続けてきた結果訪れた将来設計の大誤算とも言わしかねない常人が無意味だとする無謀な愚行へ真摯に人生を捧げた者のみが味わってきたストレスであり、生きるということの摩擦であろう。
昭和の畦道のいなたさの名残を惜しみながら「まったいら」にアスファルト舗装されてゆく都市計画の図面の中を宛てもなく彷徨い続けて来た青い春の後遺症であり、
彼自身が現実と夢との間で生きあぐね、一生こじらせ続けている不治の病とも言えよう。
舗装道路に敷かれた白線の上を整列して歩く者の中に、けんけんぱーをしながら列を乱してゆく様なその「真っ当でなさ」に対し、
「どちらが真っ当か?」「全うか?」と投げ掛ける疑問、「Who am I」であり「Wonder why?」それこそが彼の抱える独想的な哲学の根本にある様に思えてならない。
向こう見ずに見えて、実は向こう側から観ていると言えば良いのだろうか、その着眼点は置き去りにされた真実の心を読み解くアナリスト的であり、
ジャーナリズムには収まりきらない新解釈を編み出す草分け的な「ものの見方」が伺える。
又、志人は新たに作品を生み出す毎に、自身の哲学の新機軸を常に更新して行っている様にも思える。
現在では深山幽谷の地で人間とほぼ会話する時を過ごさず生きている志人だそうだが、この「さいなら まったいら」を読むにあたり、
なぜ彼が「都市」における人間の生態を対象風景として強く描くのかという根本はやはり、幼少期から生まれ育った「新宿」と「昭和の風景」をまぶた裏に色濃く残しているからではなかろうか?
都市整備の中淘汰されていく狭き公園の中のジャングルジムから見上げた高層ビル群の巨塔
イスラエリーのたむろする大久保の道に落ちた偽造テレフォンカード
担任の先生同士が消えてゆくラブホテル街….
そんな目に毒を注ぐ様な景色が満載の「新宿」が幾度も彼の中でフラッシュバックされている様に思える。
何処へ居を移そうが上書きされて行かない記憶というものさえも私には美しく思えてしまう。
一度愛想を尽かした「都市」だとしても、いつまでも心に巣を作りストーキングしてくる影の様な存在、それが彼の故郷であり、
….(中略)….
これまた膨大な情報量の詩世界を展開する”宇宙の外側-O.O.O-“。
挿絵を担当したのは、志人の初刊行物「音郷響門閃闇日立」のジャケットアートワークや文中の挿絵全般を担当した尼子が今作にも謎の挿絵を提供している。
志人の作画とは対照的でいて共通項が垣間見える尼子の作画はDNAシークエンシングを想起させる様な幾何学的であり、理系的。
部分集合の内部、外部、境界/点の近傍/点列の収束/連結性/位相空間から位相空間への写像の連続性/開集合、閉集合、閉包
位相空間的な画風である一方、定規などを使用せずフリーハンドで緻密に描かれた絵画は、脳内に浮かんだ目視出来ぬ疑問符を可視化したかの様な異物感を醸し出している。
“宇宙の外側-O.O.O-“の誠に壮大で難解な哲学詩世界を紐解くきっかけになるか、一層にこんがらがってゆくか、、それは読み手次第であろう。
私は一層にこんがらがり、その「こんがらがり」を心地よくさえ思った。 久々に飲み物ではなく、読み物で酔った感じである。
….(中略)….
物書きとしてはご法度の脇道に逸れる筆先、「さいなら まったいら」に面食らって、フラフラしてきた。
しばし夢遊病者の如くろれつの回らぬ様な持論を展開する事にはなるが、
私自身も昭和に生まれた者である。そして「世代」や「時代」などという区切り目の言葉には微塵も魅力を感じないし、
何の変哲のない日常の繰り返しに彩りを与えてやるためにマスコミが当て付けた単なる名称にしか思っていない。
つまり、その言葉を使えど世間一般的な共通認識というものは、浅はかなTV情報やWEB情報内で処理されるだけのことである。
明確なのは、進化はせど深化せず、退化の過程の中に見落とした深化があり、人並み外れた集中力と情熱がそれを拾う。一方、分散した集中力と冷めた諦めがそれを見捨てる。
だのに人間は過剰情報の渦に思考停止を強いられ、進化したソフトを駆使せど進化せず、退化の一途を辿っている。
私自身の誠に極端な持論を展開するが、この状況は非常に好ましいと言えよう。
一般的には、「好ましくない、一刻も早くこの状況から逃れなければ人間は危うい」と言えば迎合するものも多数いるだろう。 真逆だ。好機である。
これは一度裏を返せば、退化中に深化を探るきっかけが溢れていることになるのである。
ああ、気付けば私は全くもって見事に「さいなら まったいら」にアジられてしまい、行く宛てのない怒りを顕にして文字起こしをしてしまっているではないか。
触発されるというのはこの事なのだろうか? いてもたってもいられなくなってしまった。
「触れたら最後感」これにいつも気付かされ、心動かされるのは志人であり、ON TODAのとめどなく溢れる表現活動である。
彼らの近年の表現に見られるのは、まるで死に瀕しているのではなかろうか?と想わせる程の過剰なまでの集中力である。
それは、最新型ソフトが構築し得る新たな技法の中で切磋琢磨する技術者に成り下がった表現者達への挑戦状を叩きつけている姿にも見える。
どうやらこの集中力と瞬発力こそが、退化の一途を辿るか、深化の一石を磨くかの分かれ道の様だ。
彼らは作品を手懸ける喜びを胸に、明らかに戦っている。 そして何よりも楽しそうなのである。
もしかしたら彼らは自身の手掛けた作品を自分の部屋の棚に飾ったりなどはせず、墓に埋葬する様な感じで、生み出しては封じ込め、振り返りもせず、
次なる”死”へ向かってまっしぐらになっているのではなかろうか。
彼らは従来より息をする様に作品を作り続けている。
この瞬発力と集中力を保持する彼らが、今後も作品を眠らせることなく、世に、我々の耳元に、目に、心に、脳に、後の世に、残し続けてくれることを切に願っている。
この私の様にけんけんぱーをして脇道に逸れていってしまう人間に対して志人は「素晴らしい ズラカリ」と言ってのける。
道から逸れれば、自分が元居た道を見つめ直す事に繋がる。 元居た列に戻るか、ズラカリ姿をくらますか、、物書きの根底の信念をも揺がし覆そうとしてくる。
同時期に発表された”意図的迷路”12inchも”凹凸凹”も、「自ら進んで はぐれなさい」と言っている様な作品達だ。
思えば遠く、私は既にどの様にしてこの文章を書き進めようとしていたかの魂胆すら行方不明になりつつある。 と言うか、完全にはぐれてしまった。自分で作った迷路だったはずなのに。。
(以下省略)
ー ライター 穴あきアナライザー - 「さいなら まったいら」 レビュー より抜粋
■ 2018年12月25日発売